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シリーズ 薬害肝炎訴訟 その11
国による全ての肝炎患者の救済を!! 2002年10月、フィブリノゲン等、血液製剤の投与によりC型肝炎に感染させられた薬害肝炎の被害者が、国と製薬企業を相手に東京と大阪の裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こしました。その後、福岡、仙台、名古屋でも提訴され、全国規模の裁判として注目されています。現在、全国で74人の原告団となり8人が実名を公表して裁判を闘っています。東京では、バーカー氏の証人尋問に続き、9月28日、大林明医師の主尋問(原告側からの尋問)11月30日は、午前が真木正博医師による被告側の主尋問、午後から大林明医師への反対尋問(被告側からの尋問)がありました。
「薬害肝炎訴訟」 大林明医師の証人尋問
第13回裁判開かれる
9月28日の公判は、大林明先生の証人尋問がありました。病歴の長い方はご存知だと思いますが、大林先生は1949(昭和24)年に医師免許を取得され、大阪医科大学助教授から昭和52年3月、東京都立駒込病院 感染症科部長に就任、同59年4月、国立療養所東京病院 肝臓部門医長となられ、1991(平成3)年3月に定年退職されるまで、ウイルス性肝炎の臨床や研究に従事されました。特に1983(昭和58)年雑誌「肝臓」に発表された『輸血と肝硬変、肝細胞癌との関連についての臨床疫学的研究』は、医学会においても高い評価を受けています。この論文は、原告側の主張を支持する重要な書証として提出されています。「薬害肝炎訴訟」で原告側は、フィブリノゲン製剤が承認された1964(昭和39)年には、現在のB型肝炎とC型肝炎を含む「血清肝炎」は高い割合で慢性化し、一部は肝硬変にまで進展する重篤な疾患であることが分かっていた、1970年代に入り、B型肝炎ウイルスが発見された後、「非A非B型肝炎」(現在のC型肝炎)と呼ばれた肝炎についても、やはり高率に慢性化し、肝硬変、肝がんにまで進行することが分かっていた。だから、国や製薬会社は、肝炎に感染する危険のあるフィブリノゲン製剤を使わせるべきではなかった、と主張しています。これに対して、被告側は1989(平成元)年にC型肝炎ウイルスが発見されるまでは、血清肝炎や非A非B型肝炎が重い病気であるとは考えられていなかったと反論をしています。大林先生は、1964年頃の「血清肝炎」に関しては、当時、多くの著名な肝臓病学者らが、血清肝炎が高率に慢性化することを報告していたこと、現場の臨床医も将来的に肝硬変に進展することを念頭において診療していたと証言されました。また、非A非B型肝炎と呼ばれていた時期については、イギリスの有名な医学雑誌「ランセット」に掲載されたプリンスという学者の論文を根拠に、当時から国内外で非A非B型肝炎が危険な疾患であることは指摘されており、そのような危機感を背景に、輸血と肝疾患との因果関係に関する研究に着手され、1983年に上記論文を雑誌「肝臓」に発表されたこと、その結果、非A非B型肝炎が肝硬変・肝がんに進展していくことが実証されたこと、他の研究者らによっても同様のことが明らかとされており、非A非B型肝炎が重篤な疾患であるということは、共通認識となっていたことなど被告らの弁解を一蹴する証言でした。
第14回裁判開かれる
11月30日、大林明先生に対する被告側の反対尋問がありました。尋問は国、三菱ウエルファーマ(旧ミドリ十字)、日本製薬の順に代理人(弁護士)からありましたが、被告側は、@血清肝炎、非A非B型肝炎の予後の重篤性については、1989年まで医学界であいまいだった A医学的な実証があっても正確ではなかった B学会でもいろいろな意見があって、統一見解はなかった。と3つの観点から攻めてきました。大林先生は、現在から見れば多少のあいまいさはあっても、国や企業は危険を回避する対策をとるべきであったと最後に締めくくられました。裁判終了後に弁護士会館で開かれた報告集会に参加された大林先生は「本日の尋問は疲れたが、大勢の原告や患者さんの役に立つのであれば嬉しい」と挨拶されました。本当にお疲れさまでした。次回は2005年2月1日(火)、真木正博医師に対する原告側の反対尋問があります。フィブリノゲン製剤はお産の止血剤として有効だったのでしょうか。重要な争点の一つです。最高の山場となるでしょう。傍聴支援よろしくお願いします。開廷時間は事務所に問合せてください。